BCG接種に関する可能性を継続注視すべき理由
組み換えBCG技術を利用し、
新潟大学がCOVID-19ワクチン開発へ
【コロナ虚偽報告を地方組織へ命令した厚生労働省】
【コロナ虚偽報告を地方組織へ命令した厚生労働省】
日本だけでなく、アメリカでも発生している。
コロナのウソが日本でも、ようやく暴かれた。
★【日本でもコロナ死者数水増し】
厚生省から各地方自治体に、コロナ死者数の虚偽報告をしろと、指示が出ていた!
寺尾介伸氏
愛知県の感染対策局の職員に、厚生省から虚偽報告指示があったか確認すると、悪びれる様子もなく、「ありました」とあっさりと認める。罪の意識の無さに、正直、驚いた。
「ここに、虚偽の報告しろと書いてあるけど、意味分かってる?」と尋ねると、「ハイハイ、分かってます。他の職員もそれは分かっている」と真顔で答える担当者。
国と都道府県とマスコミがグルになり、壮大なコロナ詐欺を展開している。
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令和2年7月31日(金)に、愛知県庁・感染症対策局の職員とのやり取りです。
「医療機関に応援金 愛知県、患者1人最大400万円」という制度は6月中旬にスタートしており、既に6件の申請があると、愛知県感染症対策課から返答ありました。
このまま黙って見過ごす訳にはいかないので、この前みたいに感染症対策課の担当者と、色々と話をしてこようと思います。一緒に行く人はいませんか?予定としては、13日か14日に行こうと思います。
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事務連絡 令和2 年6 月18 日
都道府県各 保健所設置市 衛生主管部(局)御中
特別区 厚生労働省新型コロナウイルス感染症対策推進本部
新型コロナウイルス感染症患者の急変及び死亡時の連絡について
○ 新型コロナウイルス感染症の陽性者であって、入院中や療中に亡くなった方については、厳密な死因を問わず、「死亡者数」として全数を公表するようお願いいたします。
なお、新型コロナウイルス感染症を死因とするものの数を都道府県等が峻別できた場合に、別途、新型コロナウイルス感染症を死因とする死亡者数を内数として、公表することは差し支えありません。
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<新型コロナ>死者65人に訂正、埼玉県が13人追加 国が統一見解、死因問わず死亡者数として公表へ
◉関連動画↓死因問わず!
PCR陽性なら死因はコロナ
◉スコットジェンセン医師(議員)の告発!死者数はお金の為に水増しされている
◉ 死亡診断書にコロナを付け加えろ!」その真実を告発した医師が弾圧されている!
■YouTube全動画・2020/8/3
■元動画・2020/8/3
ドイツでは2000人の「啓蒙の医師団体」が立ち上がりDS(ディープステイト)への抗議と、今のウィルスへの茶番の証拠をあげた
以上
PCR検査と新型コロナの ウソや欺瞞が臭っている!
コロナウィルスから見るとマスクの穴はウィルス自体の100倍以上の大きさで、ザルに水を通す以上に素通りする。これを知らずにマスクして歩くマスク馬鹿と近々認識が変わるだろう。
暑い夏のマスクは、低酸素脳症やら低体温やら熱中症やら脱水症やら不整脈やら何やらかんやらで不健康になりマスク!
PCR検査は感度を上げれば何にでも反応する。
皆んな集団催眠にかかったまんまで経済死。
有害無益な意味無しワクチンを我先にと必死に求める愚かさを知る為に以下のYoutube映像をすべてご覧下さい。反論したい方はすべて見た後でお願い致します。
【新型コロナウィルスの第2波到来を真っ向から否定する専門家】
免疫学の権威が断言「コロナ第2波なんかない!」 集団免疫でしか終息しない
(2020年7月28)
(2020/07/21)
(2020/07/29)
【医師解説】コロナ検査は意味なし!?
人類の99.99999%が疑うことも知らずに信じ込まされている
インチキ1114(有害ワクチンの強制摂取が待っている)
ワクチン問題 米国女性内科医が語る
「暴走するアメリカと世界政府の誕生」3/3
ジェイ・エピセンター 氏
この背景に地球人口削減計画があります。この話、ジョウシキ教信者さんはセセラ笑う反応を示します。歴史的背景を知らないからです。
以上
大西つねき氏と白崎一裕氏の狭間を考える
再び、大西つねきさん「命の選別」発言批判 ① ――― 立憲主義の立場から
白崎一裕氏の論文です。
これから、書くことは、大西さんやれいわ新選組への揚げ足取りや悪意のある中傷ではないことを断っておきたい。私は、今回の大西さんのご発言をめぐっておきたことは、とても重要な政治思想的問題提起だと考えている。アメリカでは、Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)運動により、ポリコレ的に、言論空間が閉鎖的になってきてしまっているという批判がある。いまの自分に、詳細なアメリカの状況を分析する能力はないので、あくまでも伝聞にすぎないが、今回の大西さんのご発言を、ポリコレ的な狭いところにおしこめて、本人が除籍になったのだから、それでもうおしまい、ということにしたくないのだ。
自分たちが、主体的に政治を考えるために、あえて発信してみたいと思う。
私が7月8日に、「大西つねきさん「命の選別」発言批判」を書いてから、今日まで大きく事態は動いた。結果として、れいわ新選組の総会が開かれ、大西さんは除籍ということになり、17日の夜に、大西さんは、この間の経緯などを説明する記者会見を開いた。この記者会見で読み上げた文章は、すでに、HPにアップされているので、読むことができる。
大西さんは、れいわ新選組総会の席上、最初の「命の選別発言謝罪と撤回」を翻し、その判断を「撤回」された。このことを聞いたときに、私は、除籍は当然のことだろうと思った。また、それが、本人の「離党届受理」という形になっていたとしても、結果としては、同じことだと考えた。その理由は、「撤回」ということで、大西さんとれいわ新選組の、それぞれの「政治的立場」および「政治思想」が明確に違うということが宣言されたと考えたからだ。除籍でも離党勧告でも、本質的な違いはないと思う。
現在のところ、上記の両者の違いは決定的と考える。ここをあいまいにして共に同じテーブルで政治活動をすることは論理的に不可能だ。これは、粛清でもなんでもない、基本的な政治的思想の違いから袂を分かったということなのだ。もちろん、れいわ新選組が、「NPO政治研究会」のような研究団体なら、主義・主張の違う者が、同じ団体に所属することは可能だろう。しかし、一定の政治思想の旗を掲げて、それに沿う行動をする政党の場合は、きわめて難しいと考える。
上記のことは、大西さんご自身も自覚されているのではないか。
ここにいたるまでの、大西さんに対する「レクチャー」や総会は非公開となり、私の望んでいた公開ではなかったが、ここまでの、記者会見や総会参加れいわ構成メンバーのチューブ発言、そして、先に述べたように大西さん自身のHPアップ意見などを総合してみると、限りなく「公開」に近い形の言論空間を作り上げることは可能なのではないかと思い、まったくの非力・無名ながら、そこに私も参画したい。
なぜ、私が「公開」にこだわるかというと政治的公論というのは、以下の三つの原則が重要だと思うからだ。この三原則は、思想史家の関曠野さんに学んだことだが、次の三点である。「公」の意味する基本的要素とは①、万人に関わる共通性 ②、万人が見聞きできる公然性 ③、万人がアクセスできる公開性 である。今回の大西さん発言の内容は、この三つの条件にからみ、すべての人々が議論するべき「公的課題」だと考える。
ここからは、私なりに、大西さんの発言を「立憲主義」の観点から検討してみたい。
まずは、大西さんのHPにアップされた7月17日の記者会発表文章をあらためて読み直してみよう。大西さんは、そのなかで、「命の選別」という言葉を使ったことを、反省していて、次のように書かれている
「確かに今回、私は政治家にはあるまじき言葉使いをし、それによって恐怖や不快な思いを感じられた方がたくさんいらっしゃったことはよくわかります。その点については深く反省し、今後細心の注意を払いたいと、これは本気で思っております。」
ただ、この前段で、次のように言ってもおられる。
「私が『政治家が命を選別しなければならない』と思わず言ってしまったのは、このように命の選別になりかねない考えも恐れず発信し、場合によってはそれに賛同する人々の負託を受けて、代理人とし実行する仕事であるということです。それを政治家が尻込みしていて、他に誰ができるのか、と言う話です。」(強調部分引用者)
これらの部分を私なりにまとめると、大西さんは次のように主張されたいのだと思う。
「「命の選別」という言葉はまずい表現だったが、その趣旨は、「命の選別になるかもしれない」考えを発信し、それを実行するのが政治家の仕事で、その覚悟をもって政治家は仕事をしろ」ということではないか。
ここで、考えなければならない重要な論点は、
●「命の選別になりかねない」ことを政治家が、国民(人々)の代理人として実行することが許されるのか?ということである。
ここに大西さんとれいわ新選組の国会議員である、木村栄子さんたちとの大きな違いがあると私は考えている。
このことを考える前提として、大西さんご自身の思想を見直してみよう。大西さんのご著書『私が総理大臣ならこうする』のp215に「何のために生き、死ぬか」という小見出しのついた文章がある。重要な箇所なので、すこし、長くなるが全文引用する(強調部分は引用者)。
「(前略)―― 皆さんは今、何のために生きているでしょう?その答えはそれぞれだと思いますが、少なくとも私は、人は生きるために生きるのではないと思っています。ただ生き延びるのが目的ではなく、限られた生の中で何をするかが大事だと。一人ひとりがそれを真剣に考え、自分の人生において大事なことを突き詰めれば、やはり同じ価値観を大事にする社会や国で暮らしたいと願うはずです。そういう個々の考えを集約したものが国家の方向性であり、それが国の形を作る。――(後略)」
上記、引用した、前半の傍点部分と後半の傍点部分をよく比較していただきたい。前半では、人は「それぞれ」だと思う、といいながら、後半は、「同じ価値観、集約したものが国家の方向性を作る」という。ここが、大西さんの政治思想のひとつの特徴(パターン)である。
17日の記者会見でも同じ思考パターンが随所にみられる。この思考パターンをあえて、まとめると「信条は、自由主義」しかし「結果は、共同体主義」という二元的構造である。
これは、政治論・国家論としては、きわめて問題がある。現在の立憲主義国家では、大西さんの言われる「同じ価値観の集約が、国の形をつくること」を憲法で強く制限している構造になっているからだ。そして、それは、歴史的に重い意味をもつ構造(システム)でもある。
大西さんが主張する、「政治家の仕事」を実行するためには、かならず国家権力の行使が伴う。その権力行使は、大西さんという政治家が「正しい」ないしは「正しいと思われる」考えの人たちの「代理」で行使できるというものではない。権力行使を根拠づける法律は、憲法に照らして憲法にそうものでなければならない。
その憲法には、どのように書かれているだろうか。
日本国憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第14条
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
そして、日本国憲法と同等の価値を持つとされる、
国際人権規約の自由権規約では
第6条 1、すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保護される。恣意的にその生命を奪われない。
また、国際人権規約の発展形でもある、障害者権利条約では
第10条 生命に対する権利
締約国は、すべての人間が生命に対する固有の権利を有することを再確認し、また、障害のある人が他の者との平等を基礎として当該権利を効果的に享有することを確保するためのすべての必要な措置をとる。
第17条 個人のインテグリティ〔不可侵性〕の保護
障害のあるすべての人は、他の者との平等を基礎として、その身体的及び精神的なインテグリティ〔不可侵性〕を尊重される権利を有する。
これらの基本権は、それぞれ「生命に対する固有の権利、個人の自由・尊厳は、憲法による国家権力により保障される」ということを言っている。ここでは、まさに政治(家)が、「生命の選別」をすることの「権力行使」を強く制限・禁止していることを表していて、「命の選別」へのダメ出しをしている。
このことを、大西さんの著作に即して解説してみよう。
大西さんのように「死の恐怖を克服して生に執着しない」人間も、私のように「意気地がなく、いつまでもダラダラと生に執着する」人間も、どのような「信条(価値観)」の持ち主も、個人として生きていくことが保障されているのが、基本的人権の保障をうたった立憲主義国家ということである。
再度、くりかえすが、大西さんの論理は、この点において矛盾している。
17日の記者会見でも、
「そもそも人に優劣などないように、この世に正しいも正しくないもないと思います。全ては主観です。正しさはそれぞれの心の中に持っておけばいいですが、それ持ち出して振り回せば、他の正しさとの戦いになります。そんなことをしていては一ミリも前に進まない。私は自分の正しさを主張して戦うつもりはありません。それは一人ひとりが自分で決めればいい。でも、自分の考えにしたがって自分であり続けることはやめません。それをやめてしまったら、私は、自分は生きていることにならないと思いますから。」
前半では、個人の正しさは、その人次第で「自由」といいながら、ご自分の考えで自分であり続けることはやめない、と言われている。一見ここは、相対主義で「あなたは、あなた。私は私」といいながら、政治的活動ではご自分の正しさを主張するわけである。
図式化すれば、以下のようになり、⇒部分に、論理の飛躍がある。
「それぞれの個人尊重」⇒「大西共同体への参加要求、すなわち大西さんの自己主張」
先に述べた、憲法や国際人権規約の条文は、これまでの歴史のなかで、無数の「正しさ」のぶつかりあいの中から、一般化され吟味された言葉の結晶である。まさに、これらは、ルソーの「社会契約論」でいうところの「一般意志」の一表現ということになろう。
この歴史性を無視して、政治の場での権力行使は許されない。政治的言論空間では、「あなたは、あなた。私は私」という相対主義は、欺瞞だと思う。やはり、個別の正しさ(個別意志)をぶつけ合って、議論して、みちびきだした「一般意志」が政策として法となり、そのもとで権力行使され政策が実行されていく。
(ルソー著『社会契約論』第三章 一般意志と全体意志の違い)
再度、議論をまぜかえすが、大西さんの17日の記者会見を援用すれば、こう言われるかもしれない。「どんな政策でも、命の選別につながることをしているのだから、ことさら、私の問題提起を危険な思想とレッテルをはるのはおかしいではないか?」と。
しかし、ここは、大西さんのご発言をあいまいにしてはならないと思う。コロナ禍のなかで、明らかに、大西さんは、コロナ対策も含め、高齢者介護、終末期医療、世代間格差などにつながる問題意識をもたれ、それを「命の選別」という表現でまとめたのだから、それは、一般的な「政策」とは区別して議論されるべきである。
大西さんとは講演会等の共同の企画を通して、本当に、すばらしい金融・経済政策と高い政治的志を持った方だと尊敬してきた。だが、完璧な人間など、私も含めて存在しない。
大西さんに、まず、欠けているのは、いままで、私が書いてきた「権力論・国家論」のデリケートな論点ではないだろうか。
この論考は、長くなるが、続けていく。次は、大西さんの発言は、優生思想なのか?ということ。そして、高齢者問題や終末期医療の問題なども考えてみたい。
(2020年7月20日記)
上記を大西つねき氏の以下の映像主張と重ね合わせて、「命の選別のタブーに政治家が踏み込むこと」への解釈を様々な立場から考えることをお勧めします。これは大西つねき氏を貶める事を目的としている訳ではなく、優生思想と決めつけて思考停止になる事へもう少し深く考えてみませんか!と言う誘いでもあり、大西つねき氏の二段構えの論理展開は、立憲主義の立場から如何なものなのか?と言う提言にも触れます。その上で、現実問題としてどうすべきなのか?考えていきましょう。
大西つねき記者会見中継
(Live配信2020/7/17)
以上
優生思想発言により除籍された大西つねき氏の説明と解説
FB 鹿又隆志氏のご意見
(このサイトの最初に大西つねき氏の自説の詳細説明Youtube映像があります)
https:/
FB Chihiro Sato氏の解説
【死のタブー】
大西つねきさんのれいわ新選組除籍のニュースを見ていて、死のタブーが社会を支配しているのを感じた。
タブーというのは、いかなる事情であれ、どんな背景があるのであれ、とにかく「絶対にいけないもの」と皆が思い込むもののことだ。議論の余地はない。頭から「いけないものはいけない」ということになって、かなり感情的に排除されることになっている。
これまでにも、いろいろなタブーがあった。ほんの50年くらい前までは、セックスだってタブーだった。宗教の世界では神さまに疑問にはさむのがタブーだ。それは公に語ってはいけないものであり、語った場合はヒステリックな攻撃とともに排除されることになる。そんなのがタブーだ。
人はタブーによって容易に支配されてしまう。タブーが関わってくると、人は完全に判断力を失う。そして、思いのままに操作されてしまうことになる。それは歴史を見ればわかる。セックスや神さまのタブーで、一体どんな理不尽なことがすべて公然と行われてきたことか。
その中でも、死のタブーは最後まで残る最も大きなタブーなのかもしれない。とにかく死なないようにすることが大事で、そのためにはいかなる犠牲の強要も許されるということになる。コロナはまさにそんなタブーを直撃したような状況だ。コロナ感染による死者を減らすのが最優先で、そのためにはいかなる犠牲も払うことが強要されている。それによって死ぬ人がいたとしても、それについては語られていない。
だから、命の選別は現実に行われているのだ。語られていないだけで、行われている。それを行われていないかのように見せかけているものこそが死のタブーだ。大西つねきさんは、そのタブーを破って、本当に命を大事する社会に世の中を解放しようとしたんだと思う。
ドイツでは、医師のディスクロージャーのグループができて、コロナによる規制のために死の危険にある人々がたくさんいることを訴えていた。救命のための人工呼吸まで自粛の通達があったり、必要な治療を受けられないために死ぬ人もいると。そうなるとまったく現実的に、どっちを優先するのがいいのか、という話になる。その話をできないようにしているのが、死のタブーなのだ。
現代の医療は、とにかく死なないようにすることしか考えられていない。どのように生きて、どのように死ぬのかということは問題にされず、ただ死なないようにすることだけなのだ。とにかく死はいけないもの、最悪のものであり、何があってもいかなる犠牲を払っても避けなければいけないものということになっている。
そもそも死とは何なのかということも語られない。ただ避けなければいけないものだということにしかなっていない。人間は誰でも必ず死ぬので、死ぬときが来ている人が何かの病気にかかって死ぬのはまったく自然なことなのだ。人は病気にかかるから死ぬと思われているけれど、そうとも限らない。死ぬときには人は病気になるのだ。それはまったく自然のプロセスだ。
大西つねきさんが「命の選別」なんていう言葉を敢えて使ったことで、タブーの存在がくっきりと浮き上がってきた。このタブーこそは、今解かれるべきものなんだと私は思う。だからこそのこの大騒ぎなのだと。
だから、れいわの人たちが大西つねきさんの言うことを理解しないで排除してしまったのも、まあ当然のなりゆきと言えばそうなんだと思う。タブーというのは、大多数の人が無意識に支配されているものなので、それを見抜ける人はごく少数だ。だから、れいわの代表がそれを受け入れられなかったのも、無理ないといえば無理ない。そして、発言取り消しと謝罪を要求するという、表向きを取りつくろうような、実に保守的なやり方になったのだけれど、それもタブーに触れたときの典型的な反応だと言える。
それに対して、大西つねきさんが謝罪を撤回したのは、さすがだと私は思った。お金のタブーを破ったこの人は、死のタブーも破ろうとしている。言葉が足りなくて激憤を買ったというのは事実だと思う。だけど、これはこれまでずっとタブーだったことなのだから、十分な言葉を知る人などまだいないのは当たり前だ。最初に一歩を踏み出す人は、誰だって最初から理解されないのは当たり前のことなのだ。
https:/
《能村聡氏のご意見》
命の選別という言葉が物議をかもしている。優生思想や生産性で命の価値を評価してはいけない。自分は社会に選別などされたくなけれど、生命維持技術でただ生きているだけで自分が幸せを感じない延命治療は拒否したい。それは選別ではない。自分で「選択」できる仕組みがいい。
《私の感想》
Chihiroさんが指摘した「死のタブーに踏み込んだ大西つねき氏」への理解が広まり、除籍を決定したれいわ新選組内の認識が高まることにより除籍により凍りついた亀裂が元に戻り、円満な大西つねき氏の復帰劇が起きる事を現在の私は望んでいます。今後どの様に「死のタブー」に対する多重多層的複眼思考が醸成されるのか?それとも溝は更に深まるのか?
ここ注視ポイントですね。分かりやすい文章表現をありがとうございます。
以上
共産党さん、負けるな!(論点外れてますが・・・)
ちょっと不謹慎・不適切であるかもしれません。
生活保護や公営住宅入居目的の為に、
宗教への入信を促す行為が暗黙の了解の下に
行われているとしたらね。
背に腹は代えられないリアルで
生々しい話を聞いた感じがします。
創価学会に入信して生活保護と公営住宅を同時にゲット
創価学会に入信すると生活保護を斡旋してもらえることは知っていたけど、やけに公営住宅に学会員が多いと思ったら、それらをセットで手に入れていたわけね
地域行政は、もはや創価学会(公明党)に完全に毒され、牛耳られているということか
生活保護と住居確保目的の為に信者になるなら、創価学会以外の宗教や共産党にも組織に入信(加入)する事で、
生活保護や公営住宅に入りやすくなる便宜が効くのか?
調べたくなります。社会学や政治学として純粋にね。
日本全国市・区・町・村別「宗教思想組織仲介便宜度ランキング」を作成して欲しいな。地域性を知る新たな視点が増えます。
保育園はどうなの?縁故紹介で公務員就職は?気になります。
(苦笑&爆笑でも触れたがらない現実でしょ?)
信者になった後の方が、もっと怖かったりして・・・。
だってさ、一生負い目を感じて、従属関係の軽~い強要感を脅迫罪にならない程度にチラッと匂わす関係が続くって、テレビドラマの見過ぎかなぁ~。
「人権」って半分お仲間・半分上下関係の世間話感覚から壊れていくんじゃないの?隙間の間って「魔」だよね。